景流関係資料
柳河藩景流居合に関連する写真資料をまとめました。
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柳河城五層の天守閣(慶応2年頃 冨重利平撮影)。
明治5年(1872年)1月18日に失火にて焼失。
柳川の俗謡に「柳河3年、肥後3月、肥前・久留米は朝茶の子」(柳河城を落すには3年、熊本城は3ヶ月、佐賀城・久留米城は朝飯前)と謡われた難攻不落の名城であった。
柳河城は戦国時代に蒲池(かまち)氏が築城し、蒲池鎮並の時に龍造寺氏が2万の大軍で攻めたが落城せず、鎮並はその後佐賀で誘殺された(子孫はその後柳河藩士となるが、蒲池一族で有名なのは松田聖子「本名は蒲池法子」である)。
その後柳河城は龍造寺氏、鍋島氏が城主となったが、豊臣秀吉の九州征伐後に立花宗茂が城主となる。関ヶ原の戦いで宗茂は西軍側であったため城を開け渡し、代わりに岡崎城主の田中吉政が石田三成を捕えた功績により城主となった。のちに子の忠政が城主となったが、忠政の死後、世継ぎの子がいない理由で改易されると立花宗茂が再び城主として復帰した(元和6年、1620年)。以降明治維新まで立花氏の居城として続いた。
景流の師範家、渡辺家の墓。「専念寺」。
手前左側の墓は渡辺百(はげみ)の墓である。上台の正面には「居合門弟中」と書かれ、側面には門弟の名前が書かれている。棹石の側面、背面の三面に渡辺百の事績が詳しく書かれている。
渡辺家は「旧柳河藩志」によると、柳河藩に景流をもたらした渡辺幸次の父幸直は豊臣秀次の近臣であった。秀次死後浪人となり京都に住んでいた。立花宗茂が浪人となり、京都に入った頃に交流があり、元和6年立花宗茂が柳河に再城の際に招きに応じ、妻子を連れて宗茂に仕えたという。現在も柳川市袋町に拝領屋敷が残っている。景流の教えを乞う者が多く、藩外の者には城下新町の江崎邸にて指南していたという。
景流を明治以降伝えてきた問註所(もんぢゅうしょ)家の墓。「福厳寺」。
問註所謙三郎の父、問註所参太は柳河藩の中老職を務め、藩の重臣であった。母は景流師範家の渡辺幸猛の娘である。
問註所家は立花宗茂(婿養子)の正室である誾千代(ぎんちよ)の母、仁志姫の実家である(福岡県浮羽郡長岩城主)。もとは鎌倉幕府の訴訟関係を扱う役所である「問注所」の執事の三善氏であり、代々世襲したが、鎌倉幕府の滅亡後、筑後に下向し、問註所を家名とした名家である。
景流は明治になり渡辺家が道場を解散したため、問註所謙三郎が景流を残そうと思い、子の武雄、孫の幸寿へと伝えられてきたものである。(渡辺家には残念ながら現在景流は伝わっていない)
天保14年8月、問註所謙三郎7歳の時、11代藩主立花鑑備(あきのぶ)公の前にて景流の御覧演武を行い、その御褒美として柳河藩お抱え絵師、梅澤晴峨の掛け軸を領領する。
大正2年5月。問註所謙三郎77歳の時、京都武徳殿にて景流の演武を行う。その時に掛け軸、及び鉄扇、盃を拝領する。(渡辺村男、白仁成功を連れて3名で演武する)
大正2年5月、京都武徳殿での演武時に京都で撮影された問註所謙三郎である。
左手に持っている刀は2尺8寸であり、謙三郎の3本目の刀である。若い頃は3尺6寸を抜いていたという。晩年になり、短い2尺8寸を使用していた。この刀は子の武雄、孫の幸寿へと最近まで練習に使用されていた。
景流を指導している問註所武雄(右端)。昭和40年頃に初めて柳川で一般に指導したが、1年位しか続かなかった。その後は全く指導することはなかったとのこと(幸寿先生と奥様の話)。故 水落 恵氏の話によれば、この時 江口 武三氏は3尺2寸で練習していたとのこと。(写真提供 故 水落 恵氏)
晩年の問註所武雄氏。
平成2年3月5日卒。101歳。
左手に持っている刀は父である謙三郎の晩年の2尺8寸の刀である。
景流居合刀(いあいがたな)。
銘「柳河住久廣」。長さ3尺1寸。久廣は「旧柳河藩志」によると「安政の頃より柳河藩鍛冶師として召し抱へらる。糀屋町に住す。京都に出で修行す。その鍛錬精巧切れ味殊に宜しきを以て、信濃守を授けらる。仍って筑後柳河住信濃守藤原久廣と銘を打つ」とある。
景流の居合刀は切っ先部分の横手がない菖蒲(しょうぶ)造りであり、刃引きをしている。この刃引きの刀で柳の下がった枝を下から斬り上げて、斬れたら一人前と言われている。また昔から自分の背丈までは抜ける(柄まで含んだ全長)と言われており、江戸時代の十時(ととき)播磨は4尺5寸を抜刀していたという。
景流居合刀。
銘は「柳川住國久」「文政十二年寅八月日」。
長さ2尺9寸。
(大津山家蔵)
景流居合刀。
銘は「柳川住直安」。長さは2尺8寸。
「柳川の美術Ⅱ」によると、直安は江戸の荘司(大慶)直胤に鍛刀を学び、天保年間に活躍した。
4尺を抜刀している大津山道治。
景流では自分の背丈までの長さの刀は抜けると言われている。大津山は平成4年から四尺を抜刀している。江戸時代の十時(ととき)播磨(はりま)は4尺5寸の刀を抜刀していたという。
大津山家は柳河藩士であるが、戦国時代には立花宗茂に対して3度戦っている。(実父の高橋紹運の岩屋城を島津軍の先陣として攻める。秀吉の九州征伐では立花宗茂・鍋島直茂の軍と南関城で交戦する。佐々成政へ立花宗茂が救援で食糧を運び込んだ帰路を襲撃する)しかし立花宗茂は寛容に、母親の三池姓を名乗れという命令で仕官を認めた。
熊本の藤崎八幡宮に大津山家が所持していた約3尺8寸の太刀を細川家より奉納されている。
景流11代目継承者の問註所幸寿先生(右側)と大津山道治。
平成27年7月正式に書面にて12代目継承者となる。
令和2年2月に新居に移転された問註所先生宅へ訪問した際の写真。令和3年1月現在、先生は88歳である。因みに大津山道治は68歳である。