景流居合とは

『弥和羅(やわら)と兵法(剣術)との間今一段剣術有る可し』として戦国期に林崎甚助重信によって編み出されたとされる居合。
武芸十八般の一つであり刀を鞘に納めた状態から抜き放ち斬りつけるというこの独特の技法は抜刀術とも呼ばれ、以降様々な流派が発生し多くの武芸者に修練されてきました。
中でも筑後柳河藩へと伝えられた景流居合の由来、流儀の特徴について紹介します。

由来

景流(かげりゅう)の流祖は筑前秋月の武士、山本久弥正勝(ひさや まさかつ)である。
「旧柳河藩志」では、"慶長元年正月、片山伯耆守は7日7夜、愛宕山に気籠して、只1本にて勝負を決せんことを祈願せしに、満時に及んで夢中老僧枕辺に来りて即ち一流を授く。刀鞘を出る殺那既に敵を両分するの法なり。電光の陰を切付け、抜打ちに切ることを得る。仍って之を名付けて景流居合と云ふ。伯耆守之を山本久弥正勝に授く。
寛永4年9月25日、正勝其の秘術皆伝を柳河藩士渡辺幸次に授く。柳河藩の居合は皆この景流にして此の秘術を柳河へ遣せしは、幸次を以って嚆矢(こうし)とす。"
 とある。(幸次は島原の乱にて銃弾を胸部、腹部に浴びて戦死する)

系譜

柳河藩景流居合の系譜
柳河藩景流居合の系譜
六代目継承者である渡辺幸咸の眠っている墓1
六代目継承者である渡辺幸咸の眠っている墓1
六代目継承者である渡辺幸咸の眠っている墓1
六代目継承者である渡辺幸咸の眠っている墓。上台部分に「居合門弟中」と書かれている。

流儀の特徴

 居合の祖とも言われている林崎甚助重信は三尺二寸の刀を使ったと言われ、その弟子の片山伯耆守久安(伯耆流祖)も三尺三寸を帯びていたと伝えられています。景流では多くの太刀が短く磨りあげられた徳川時代を通しても流祖以来昔のまま長い刀で修練されてきました。大小二本を差し右膝を立てた座り方で、(甲冑を着用していた頃の名残か)刀は兜の前立に当たらぬように振りかぶりすべて右手による片手斬りで、斬り下ろす時に左右の足を踏み換える技が多く見られます。

 問詮所師は「居合はどんな状況でも抜けねばならない。その練習をするのであり、立った状態よりも座ってから抜くほうが難しいので座って練習をする。また生活の延長上に居合があり、時代劇で見るように大小二本を差し下緒は鞘に巻いたままである。相手と談話している時、挨拶している時、擦れ違う時、突然抜刀して相手を倒すのである。また当然相手が先に斬りかかってきた時にも瞬時に抜刀し対応する。刀は斬れたと思ったら次の敵を素早く見て斬りかかる。従って刀を止めた位置が高いとか低いとかは問題にしない」と説明されていました。

 柳河藩の居合は皆この景流であり、この流儀を柳河藩へ伝えしめた渡辺幸次をはじめ、師範として著名だったのは山崎無善、渡辺百、足立八郎、問詮所(町野)謙三郎でした。特に問詮所謙三郎は7歳で第11代藩主・立花鑑備(あきのぶ)公の御前にて御覧演武で褒美をいただき、その後16歳の時に参勤交代で江戸へ滞在した折には酒井候・榊原候に指南したといわれております。その技は絶妙を極め、刃引きした居合刀で茣蓙枕(ござまくら)を抜打ちで一刀両断し、しかも畳には傷が一つも無かったということです。また大正時代に亡くなるまでに練習を欠かした日は一日も無かったと伝えられています。

 景流では三尺を越す刀が用いられ、三尺二~三寸の長さが覇気を養うのに丁度良いとされています(佐々木小次郎の物干竿と呼ばれた刀は三尺一寸位であっただろうという)。長い刀で修錬しておけば普通の刀は手足の如く自由に使えると言われ、創始以来そのまま今日まで伝承されてきました。また技は全部で65本程ありましたが、今では36本が伝えられています。